2018年5月29日火曜日

量子コンピューティングは“物理実験”の段階にあり、企業はアルゴリズムの研究に集中せよ

 処理性能が飛躍的に高まるとして、量子コンピューティングに対する期待が高まっている。そのような期待は正しいのだろうか。

 2018年4月27日に開催された「ガートナーITインフラストラクチャ、オペレーション・マネジメント&データセンター サミット2018」(東京)では、同社でResearch Director、HPC Servers、Emerging Tech.を務めるChirag Dekate氏が「量子コンピューティング——十分理解されず懸念もある『大胆な破壊』」と題して、量子コンピューティングの現状と近い将来の姿を示した。本稿では講演の要旨をレポートする。

指数関数的な性能向上「ムーアの法則」を引き継ぐ量子コンピューティング
 各国の大学や大企業、スタートアップ企業が量子コンピューティングへの取り組みを進め、加速しつつある。量子コンピューティング戦略を策定するITリーダーの割合は現在、全体の1%にとどまるが、2022年までに20%程度まで増えると予測しているという。

 量子コンピューティングが重要な理由はこうだ。シリコン半導体を応用したコンピュータ技術の進化は、現在が最終段階であり、次世代の技術が求められている。過去30年にわたり、IT産業は半導体の密度と性能が指数関数的に増加する「ムーアの法則」に乗って成長してきた。しかし今やシリコン微細加工技術が限界に近づき、半導体の性能の伸びは鈍化している。

 シリコン半導体では、トランジスタの数と性能がほぼ比例する。これに対して、量子コンピュータでは内蔵する「量子ビット」の数が増えると、性能が指数関数的に向上する。

 現在の技術で扱うことができる量子ビットの数は少なく、既存の量子コンピュータの計算能力は、現在のシリコンベースの高性能なコンピュータには及ばない。だが、量子ビット数が向上していけば話は変わってくる。現在では考えられないような、高度な応用が可能となるだろう。

暗号解読やDB検索以外にも用途あり
 量子コンピューティングでは、暗号解読に役立つ素因数分解の「ショアのアルゴリズム」や、データベース検索の「グローバーのアルゴリズム」が有名だ。

 だが、それ以外にも量子コンピューティングが有効となるユースケースは幾つもある。以下では5つのユースケースに注目したい。

・最適化問題 問題の規模に応じて計算時間が指数関数的に増加する。ここで量子コンピューティングが有効となる
・個別化医療 2万種類を超えるタンパク質と薬物の相互作用をモデリングする
・化学 量子シミュレーションは原子を1個追加するごとに複雑性が指数関数的に増加するものの、この課題を量子コンピューティングが解決できる
・材料科学 原子の相互作用を計算し、新材料の発見に要する期間を短縮する
・生体模倣 例えば光合成のようなプロセスをシミュレートする

 注意しておきたいことは、量子コンピューティングは成熟した技術ではなく、研究の初期段階ということだ。半導体でいえばトランジスタの発明から最初の集積回路(IC)の誕生の間ぐらいだろう。

 最初のトランジスタは補聴器の小型化のために作られた。今のようなITの基盤になるとは考えられていなかった。量子コンピューティングは、まさにそのような段階にある。今後投資が拡大する中で、予想もつかない新たな応用が出てくるだろう。

量子コンピューティングへの取り組みは3種類に分かれる
 Chirag Dekate氏の講演から、量子コンピューティングにはIT産業の今後の発展を支える大きな可能性があり、特有の強みがあるものの、実用化以前の段階にあることが分かった。

 では、先進的な取り組みを続ける企業は何を試みているのか? 一般企業や研究を支援する国は、今何をすればよいのか? 以下では同氏へのインタビュー模様を紹介しよう。

──量子コンピューティング分野の戦略を策定しているITリーダーは現在1%未満にとどまるそうですが、その先進的な1%とは、どのような人たちなのでしょうか。

Chirag Dekate氏:まず所属している企業が大きく2つに分かれます。1つは米Googleや中国アリババ(Alibaba)のようなハイパースケールカンパニー。もう1つは、伝統的な大企業です。

 Googleやアリババは、量子コンピューティングの新しい技術をゼロから立ち上げようとしています。Googleはカリフォルニア大学サンタバーバラ校と協力しています。アリババは、中国科学技術大学らと協力しています。

 一方、長瀬産業やJPモルガン・チェースのような伝統的な企業は、量子コンピューティングそのものの技術よりも、事業関連領域のアプリケーションに集中しています。取り組みの種類が全く違うのです。

 加えて第3の領域として政府機関があります。米国やEU諸国、中国、日本、オーストラリア、カナダなどの政府系団体も取り組みを進めています。以上が、量子コンピューティングに取り組む1%未満のプレ−ヤーの顔ぶれです。

──この中で、伝統的な大企業といえる長瀬産業やJPモルガン・チェースのような会社は、量子コンピューティングへの取り組みで今どのような段階にいるのでしょうか。

Dekate氏:非常に早期の段階です。これらの企業は自社の事業に量子コンピューティングをどのように適用できるか検討中です。しかし、アプリケーションの成熟までにはあと5〜10年はかかるでしょう。

──IBMは量子コンピューティングのクラウドサービス(QCaaS)として「IBM Q Experience」の提供を開始しています。このようなサービスで「今できること」は何でしょうか?

Dekate氏:IBMがクラウドサービスで提供する量子コンピューティングも16量子ビットと、現時点の計算能力はまだ小規模です。しかもそれを複数のユーザーで共有しています。このようなクラウドベースの量子コンピューティングは、「従来の問題を新しいアルゴリズム、新しいアプローチで見直すことを追求するため」に使われています。

 5〜10年後には、クラウドで利用できる量子コンピューティングも50〜100量子ビットの規模に達し、誤り訂正も付くでしょう。そうなったとき、最初の成果が出てくるだろうと考えています。例えば2018年末までにGoogleが「量子超越性(Quantum Supremacy)を達成した」と発表するかもしれません。しかし、最初の段階ではトイプロブレム(ごく簡単な問題)用であって、(実務上)意味があるアプリケーションには遠いと考えた方がよいでしょう。

 大事な点は、現在の取り組みの多くは、本質的には大規模な「量子物理実験」だということです。エンタープライズユーザーのほとんどにとって、まだ非常に早期の段階です。読者に対しては、ぜひ「今は過剰な投資をしたり、大規模な契約を結んだりする時期ではない」と伝えてください。

企業が今すべきは、"過剰な期待"を捨て、アルゴリズムの研究に集中すること
──Dekateさんは、講演の中で「広くサポートされる量子プログラミングのアプローチを選ぶべきだ」と提言していましたが、企業はどのような点に着眼すべきでしょうか? 例えば、量子ゲート方式(チューリングマシンを量子ビットで再構築したもの)と量子アニーリング方式(組み合わせ最適化問題を解くための一種の物理実験装置)の違いについてはどのように考えますか?

Dekate氏:確かに両者は違います。量子アニーリング方式は、量子コンピュータではないと主張する人もいます。ただ量子コンピューティング分野では、異なる組織が異なるアプローチで"量子物理実験装置"を作っています。その中には、うまくいくものもあれば、うまくいかないものも出てくるかもしれません。

 ここで重要な問いが2つあります。1つはエンドユーザーアプリケーション開発の戦略があるか否か。もう1つは開発ツールの準備がどれだけ整っているかです。どちらも不十分です。その理由は、現状ではハードウェアの複雑さをまだ十分に標準化できておらず、その結果、ソフトウェアのレイヤーへの投資はまだ進んでいないからです。

 従って、企業が今できることは、アルゴリズムの研究に集中すること、といえます。今後5年で量子コンピューティングのソフトウェアスタックが整備され、そこでアプリケーションの開発が現実的になるかもしれません。

──AI分野の深層学習(Deep Learning)では計算量、データ量の増大が顕著です。量子コンピューティングがAI分野に貢献できる可能性はありますか?

Dekate氏:確かに量子コンピューティングによる深層学習、機械学習を検討している人はいます。しかし率直に言えば、現時点では「同じことができるアプリケーション」を既存環境で、より安価に、より効率的に作成できます。ほとんどのITリーダーは今あるものを選ぶでしょう。つまり前述のように、しばらくの間は「実際に実現するものは何か」「過剰な期待を持っているのではないか」、それを見極めることなのです。

量子暗号が、国による投資のドライバーに
──量子暗号などの分野については、どのように見ていますか?

Dekate氏:量子暗号は重要です。既にアルゴリズムが存在しています。一方、ショアのアルゴリズムは素因数分解を高速化し、既存の暗号を解読できる可能性があります。

 米国やEU、中国で量子コンピューティングへの投資が盛んな理由の1つは、暗号は国家の安全保障に深く関係するからです。誤り訂正付きの300量子ビットの量子コンピュータがあれば、現在ある最も高度な暗号も解けるでしょう。

──それが登場するのはいつ頃でしょうか?

Dekate氏:質問されたのが2年前だったら「20年後になる」と答えていたでしょう。しかし、ここ2年で状況が変わりました。

 Googleは非常に大きな予算を投入しています。Intelもオランダのデルフト大学と提携して量子コンピューティングの研究に乗り出しています。アリババもIBMも盛んに研究を進めています。従来の予測をはるかに上回るスピードで進展があります。やがて、驚くような結果が出てくるかもしれません。

 2015年には世界全体で15億ユーロ(約2000億円、1ユーロを130.57円として換算)の研究予算が量子コンピューティング分野に投入されたという推定です。そのうち米国が3億8000万ユーロ(約500億円)、中国が2億2000万ユーロ(約290億円)、ドイツが1億2000万ユーロ(約160億円)、カナダ1億ユーロ(約130億円)、オーストラリア7500万ユーロ(約98億円)、日本6300万ユーロ(約82億円)。この投資額が現在さらに急ピッチで上がっているのです。
https://www.economist.com/news/essays/21717782-quantum-technology-beginning-come-its-own

IT投資は、国策として考えるべきだ
──日本の投資額は、カナダやオーストラリアより小さいのですね。

Dekate氏:その通りです。オーストラリアやカナダは量子コンピューティングに大きな投資をしています。カナダでは、BlackBerryの創業者らがウォータールー大学に量子コンピューティング研究所を設立し、この地域をシリコンバレーならぬ「Quantum Valley(量子バレー)」にすると発言しています。オーストラリアもこの分野に強い意欲を持っています。

 中国では5カ年計画で量子コンピューティングのテクノロジーの進展を図っています。この分野の投資額は2006年には600万元(約10億円、1人民元を17.36円として換算)にとどまっていました。それが2016年には60億元(約1000億円)の規模と推定されています。国家が20億元、それ以外が40億元を投資した計算です。このように中国では今までに見たことがないような規模で投資が進んでいます。その結果、この分野でリーダーとなる人材が育ってきています。

──研究予算で日本は既に他の国と巨大な差がついてしまっています。そのような状況にある日本の人々へのアドバイスはありますか?

Dekate氏:今やITへの投資は国策として考えなければいけません。無論、これは量子コンピューティングに限った話ではありません。特に重要なのは次世代のITリーダーを育てることです。リーダー人材は世界的に見て希少です。そのために国としては行政が政策フレームワークを作り、持続的なエコシステムを作るべきではないでしょうか。企業あるいは新たな技術のエンドユーザーとしては、政府機関や、行政に関与する政治家に対し、進んで意見を出していくことが大切だと考えます。

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